自分の好きな人が犯罪者になったときに、貴方は守るか。

 守る時もあるだろう。それが彼女のためになるのなら。
 守らないことこともあるだろ。それが彼女のためになるなら。

 「彼女のため」とは、なんだろ。


 もし、彼女が私を殺そうとした時に喜んでで殺されるだろうか。
 (エヴァンゲリオン、映画版26話シンジ アスカの首を絞める)
 
 自分の生命・利害にかかわることを、相手からされた時でも
 よろこんで、彼女のために自分を差し出すことができるだろうか
 仏陀のために、食料としての自分を差し出すウサギ(手塚版ブッダ


 私の上の恋愛の件なども軽くなってしまう。
 

 だが、その喜んでという気持ちの中にエゴはないのだろうか。
 私がリアル彼女に対して、おこなったことにはエゴがあった。
 打算があった。


 これだけ、彼女のために尽くせば、絶対に独占できるはずだ。
 こんどは、私が貴方にかけた情熱以上に、理解してくれるはずだと。


 仏教はそういうエゴを含んだものを「愛」といい、
 それを超えたものに「慈愛」といっているようだ。
 
 こんな話がある、仏陀の弟子が、殺されそうになる。
 しかし、その弟子は喜んで殺される。
 なぜなら、その過去世(転生輪廻しているから)で、相手を殺しているから
 その人から殺されることが運命として定められているからだ。


法則としての神 人格は無い、物理法則の延長といってよいもの

 魂の作用と反作用。 自分でやったことは、必ず自分に返ってくる。
 ただし、それが今すぐではなく、来世だったり、もっと先だったりする。
 それは、相手の立場を理解させ、
 より神に近いレベルに人間の魂を向上させる仕組みらしい
   ネタ本は「エドガー・ケーシーの転生輪廻」


 もちろん、そんな心境になる人は稀だろう。
 また過去世なんて、オレわかんねーよっ。


 さて、本題にもどる
 よろこんで殺されたことで、殺した相手は改心し、ブッダの弟子となる。
 殺したことが、よりよくなるためのきっかけになる・・・
 殺されることに恐怖や邪念が無いときには・・・


 「慈悲」は奥深く、わたしはまだまだ理解不能なことが多い。
 「沈黙」という狐狸庵先生のキリシタンの転向(ころび)を扱った文学もあるが
 辛い状況になっても、神が沈黙し助けてはくれない。でも、これも「慈悲」なのか。


 一般の人間の感覚からいえば、おかしな面もあるから、
 ヲームでバ※ラヤーナのような教義が曲解される余地がでてしまう。
 肉体世界の幸福よりも、魂の幸福を優先すると
 イエス
 悪いことをする手は切れとか、悪いもの見る目をつぶせとかしても、
 魂にとってよけば善になる。不思議な世界。

 慈愛はまだまだ理解不能世界だっ。